昭和48年01月09日 朝の御理解
御理解 第十七節
「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」
私は、今朝、ご神前で座った途端に頂きました事は、小唄に、唐傘と言うのが有ります。唐傘と言う題の、唐傘の骨はバラバラ紙は破れても、離れまいぞえ千鳥がけと言うのですけれども。ここんところを主の側と頂きました。唐傘の骨はバラバラ、紙は破れても離れまいぞえ主の側。そして今日教典の中から、この十七節を頂くのです。私はもう、これだけで、合楽の御理解は、これだけで、おかげを頂くと思うのです。私が御神前で頂いた事と同じ意味でしょうが。
御理解の神様が今日、皆さんに分かって貰おう、分からせよういや分かってくれよといった様な物を、此処から感じずにはおられませんですね。神の綱が切れると言うが、神は切らぬ氏子から切るなと。それは成る程本当におかげの実感という物があれば、離れられるもんじゃありませんけれども。信心しておっても、おかげが受けられないという時ですね、離れると言うのは。いうなら右と思いよっても、左の方になる。
左の方へと思いよっても、右になると言った様な時に、やはり神から離れる、所謂主の側を離れることになるのです。ですからそういう時の、私は御理解と思うのですね。いやもうそういう時に愈々益々神様へ、近づいて行くという信心にならなければなりません。それにはね。やはり巡りの自覚と言うものが、まず為されなければいけないですね。これは、自分で自分の家の事、又は自分の心の中の事を思うとね。はぁこれが家の巡りじゃもんね、これが私の巡りだと、思う事があるでしょう。
例えて申しますとね。これは椛目の時代でしたけれども。ある本当にめぐりの深い、難儀な人がお参りをして、私は丁度控えの方へ控えておった。冬の事ですからまだストーブやらのない時分ですからね。火鉢をこういっぱい起こして火鉢の前で、しとりましたら神様が横ぞに、茶布巾のじっくり濡れた、まだ洗って来たばかりの、濡れた茶布巾があったのを、こう取ってね、火鉢の炭火の上に、こうやって持って行って下さるお知らせを頂いてね。そこから御理解を頂いた事があるんですよ。
それは炭火はグルグル起っとる、中にこの例えば茶布巾が、じっくり濡れておる、まだ絞ったばっかり。だからこそ神の側に、言うならば炭の側にグルグル起きとる側に持って行っても、ぱっと燃え上がらない訳です。これが乾いた布巾を持って行ったら、どうでしょうか。持って行っただけで、ぱっと燃え上がるでしょう。してみるとね巡りのこうじっくり濡れておるという事は、巡りが深いという事です。巡りが深ければ深いほど、神様へ接近する事が出来ると言うのです。
とても普通なら熱うして寄られんのだけれどもね。けれども巡りが深いからこそ、濡れておるからこそ、火の側に持って行っても、燃え上がるどころか返ってそれが、ボチボチ乾いてくるという事になるのです。だから勿論それが、段々乾いてくるというおかげを頂かなければばならない時には、もう火の側と言うものが、どんな物で有るかという事が分かっておる。神様の本当にお懐の中に、飛び込むという様な信心はです。やはり本当、めぐりの深い人でなからなければ飛び込めない、熱くて。
それこそ傘は骨はバラバラ、紙は破れてもである、もうそれこそ雨が降っておるとするなら、じっくり濡れておるという時である。けれども決して離れてはならないぞ、神様の側を離れてはならないぞと。そういう時ほど離れんで済む信心を頂いておくために、まずは自分自身の巡りの深さを巡りの自覚が出来て来る。だからやれ痛や今みかげをと言うことにもなるのだし、今こそ巡りのお取り払いを頂いておるという実感が湧いてくる。次には、私共が信心という事を、只おかげという事だけに置いておる。
例えば仏教特に親鸞上人様がお説きになった仏教なんかと言うものは、雑宗と言うておかげを受けるとか、特別祈って御利益を願うとかという信心は、これは本当の信心じゃないんだと決めつけてありますですね。言うならば銭が欲しい美味しい物が食べたいと言う、そう言うそんなら美味しい物とか、銭とかに心が向いておる時の信心は、本当の物じゃないと言われておる。心が神に向かう。魂が清まって行くことを喜ぶ。心が神になっていくという事を楽しむという信心。
私は昨日、日奈久の富永先生達が、夫婦でお礼に出てきた時に、この御理解を頂いてから、私はもう改まると言うことの偉大さというか、と言うものに触れた感じがしました。お互い改まるということは、例えば自分ながらこんな悪い癖が有るとか、こういうところを改まって行くことが、改まりだと思うておった。勿論それも改まりですけれどもね、そういう改まりは小さい改まりです。本当の改まりと言うのはですね。私どもがいうならば、おかげに心を向けておる。
いうなら銭が欲しい美味しい物が食べたい。自分の思うごとなる様に、お願いをするという様な時はね、そういう例えば心からです自分の心が、それとは反対に、魂が神に向こうて行くという事が、信心だと分かった時がこれが大改まりなんです。もう改まってしまった時ですこれが。ですからその先に、私どもが思うておった改まりというのは、もう改まらなければ、おられんのであり改まらなければ馬鹿らしい。改まらなければ神になって行くことが出来んのですもの。
お道の信心は何処までも、生神を目指すと言うのですよ。ですから私どもが、おかげだ御利益だと言うておる方へ向きを持っておった、その向きがもう回れ右したようにです、その事なんか問題じゃないと言うことになる。そして自分の心が神に向うと言う事。魂が清まると言うことが有り難いのだ、楽しみなんだと。それが信心だと分からせて頂いた時です。もうそこには、自分の思うようになるとか、ならないとかという事は、問題外になって来る訳です。だから親鸞宗等は、そこまでを説いてある訳です。
むしろ人間が仏様に向かって、御利益を願う等という様な、その為に祈念をこらす等とい事は、これはもう雑宗だと。だから教祖もやはりそう仰っておられますよね。「信心とは、わが心が神に向うのを、信心と言うのじゃ。」とはっきり仰っておられる。今合楽で言われておる、五つの願いと言うのは、そう言う所を分からせて頂いて、尚且つの願いなんです。ですからこれはもういうならば、人間が願う願いそこんところを踏んまえての願い、それは何故かと言うとね。
お役に立ちたい立ちたいの一念が、段々募って来るからなのです。ですから先日も、ある教会の信者さんが合楽で言われておる、健康の事とか体の丈夫とか、家庭に不和のなきが元と仰るからその事を願うとか、子孫繁盛家繁盛を願うと言うことは、もう金光様の信心をすりゃ誰だって初めから願いよりますと、こう言うような言い方をするのですけれどもね。だからそういう願い方の場合は、親鸞が言われる様に雑宗なんです、間違いです。けれども、段々信心を分からせて頂いてです。
わが心が神に向うていくという事が、楽しみ有り難いとしての信心。例え骨はバラバラ、紙は破れても離れられないのは神様の側である。もしそこで離れると言うなら、如何に、私共が、程度の低い信心をしておったかという事が分かる訳であります。だから金光教祖は、その先を説かれたんですね。善し悪しをいうなら神様に任せる。そこ迄は色んな、あらゆる宗教も説いておりますよね。そして自分はいわゆる、真の信心と言うかね、愈々神に向うて行く信心をして行く事だと。
そこから本当の信心の喜びというのが頂けるんだと。金光様の信心でも同じ事それを例えば、踏んまえての五つの願いである。そこには我情ではない我欲ではない。人間の、これは切実に願う。健康でありたい家庭が円満で有りたい。愈々子孫繁盛家繁盛の大みかげも蒙りたい。それは真実の御用に立たせて頂きたいの一念であり、神願成就の事の為の御用にでも、お使い回しを頂きたいという願いがね、五つの願いになって来る。だからもう大変高度な信心なんですよ。
今合楽で言われておる五つの願いと言うのは。為にはまず私どもがめぐりの自覚に、それに入っていけれる為にですね、めぐりの自覚を持たなければいけません。巡りが深いからこそ愈々、神様に接近していけれると言う、濡れた布巾の様な物です。私は信心は、日々の改まりが第一と言われる、その改まりという事をです。皆さんまずはですね、私どもがいわば、御利益に向けておった心をです回れ右して、神に心を向ける、寄せるという事が信心だと回れ右が出来た時に。
私は今日は大改まりと言っておりますけれども、本当の改まりという事はそう言うことなんです。ですからそこには問題があっても、問題ではない事になって来る。そこを私共は分からせて頂く為に、成り行きを大事にしてきた。そしていうならば御事柄であるという事も、実感させて頂いて来た。そういういわゆる本当の生き方と言うものを、身につけて行く内にです、成る程願わんでも頼まんでも、おかげが受けられると言う、又事実そう言うおかげを受けて来た。
所が段々思いと言うものがです、本当な事へ本当な事へと募って来る。愈々わが心が神になって行く。例えばそういう心でです、世の中の事が思われ難儀な氏子の事が思われる。それには私がどうでもここに、力を受けなければならない。その力がです五つの願いです。これも私の修行の真っ最中の時分でした。その時分は神様が出がけに、傘を持って行くんだとか、今日は傘は要らないとか、もう降りそうな時であっても、神様が要らんと仰る時には、雨は降らんと言った様な状態の様な事が続いておる時分でした。
一番烈しい修行をさせて貰っておる時分でした。福岡から出て参ります時に傘を持っていく様に頂いたから傘を持って出た。所が降らないもんですから、久留米で電車を降りる時にね、傘を忘れて来てるんです。それから大城のあれに乗り換えて、大城から善導寺の方へ向かってくる訳なんです。その道々に傘を忘れた事を気付かせて頂いて、「あら、傘を忘れて来ておる。」という時に、ずうっと善導寺に帰る迄、その事についての御理解を頂いた。あの時から安心という事のお知らせを、傘で頂くことになった。
傘を忘れてきたうかつな事じゃ、今降ったらどうするか濡れなければならんじゃないか。傘を忘れてはならん。いつも信心を忘れてはならない。傘を持っとかなければならないと。と言う程しにです。どんな場合でも傘を持っておる。いわゆる安心のおかげを頂くという、その過程においてです。その傘がいわゆる骨はバラバラ、紙は破れてもという様な事になって来るのだ。そういうところに直面するのだ。そういう時に例えば今日の御理解、離れてはならない。
離れてはならないではないその紙が破れたら、骨がバラバラになったら、その紙も骨も除いて中心の所謂傘の柄ですね。その傘の柄を杖について、縋ってこいという意味の御理解を頂いた事がある。信心が段々身が入って来ると、お試しが有りますぞと、教祖は仰っておられます。傘を持っているから大丈夫。もう安心のおかげを頂いたと思うておる所まで、信心が高められて参りましてもです。
その安心がもう飛んでちぎれるのではなかろうかと思われる様な骨はバラバラ、紙は破れてという様な時、やはり安心を目指させて頂いて、きつい時には、それを杖についての信心修行からです。本当な降っても破れもしなければ、折れもしないという様な、いわゆる、安心の傘というか、安心のおかげを受けられるのであります。その過程の事をです、此処に教えておられる。
そういう時の私はお互いが、もう本当に神も仏もない物だろうかと。もう神の綱が切れたという時なのです。そういう時に神からは切らぬ、氏子から切るなと仰せられる。そん時が、愈々神を杖についての信心修行がなされなければならない時である。そこまで行くと、いわゆる、信心の究極の処は、安心のおかげを受けると言うことであります。その過程に於いて、私はまず巡りの自覚をしなければならないという事と、大改まりという事を聞いて頂きましたですね。
私共が大改まり、信心とはこういう信心をもって、本当の信心なのだという事をです。心が、おかげの方から、神の方へ向いた時心が。それが真の信心なんです。そういう信心を踏んまえて、どうぞ健康のおかげも頂きたい。家族円満のおかげも頂きたい。愈々子孫繁昌家繁昌を願わなければおられない。いやそれはそのまま、神の願いであるという事が、本当に分かったと言うのが今の合楽の信心じゃないでしょうか。
氏子信心しておかげを受けてくれよという事は、この世にある時は、もう病人でん仕様ないという事じゃない。この世にある内に、健康のおかげも頂いていておってくれよ。家庭円満の大みかげも頂いておって呉れよ。いいや家庭は今円満に行っておりますけれども、より尚頂いて、只円満というだけではなくて、拝み合うていけれる処まで、ひとつ高めて行かせて貰う。愈々子孫繁盛家繁盛の大みかげを頂かせて貰うという事をです、願うという事は、それは私共の願いではなくて、神の願いで有る。
いや私共の願いでもあるけれどもです。それは切に神様が願われる願いである。氏子信心しておかげ受けてくれよと言うおかげ。そこに私共のね教祖の信心の素晴らしさがあると思うです。だから成る程総氏子が、ここの信心を本当に分からせて頂いて、幸せになって行かなければならないなという事を、愈々強く思います。神の願いと私共の願いというのが、本当の意味に於いて交流する。けれどもここのところの、今私が申しました基本のところをです。いわゆる大改まりに改まらずしてです。
願うことはこれは自分の我情を願うのであり、我欲を願うのであり仏教的に言うなら、雑宗的な信心ですからそれは本当の信心じゃない。ところが金光様のご信心の場合は、そこのところが願えばおかげを受けますもんですから、只おかげに腰掛けてしまう、それだったら一生、雑宗で終わらなければならない事になるのです。私共が一つ本気で大改まりに改まらせて頂いて、向きを変えての信心。そこから願われる五つの願い。この願いはもう光り輝くばかりの願いになって来るのですよ。
何故って神の願いを私共は願いよるとじゃから。そこで私共の願わせて頂く心の状態の中にです、よりお役に立ちたい、お役に立ちたいの一念と言うものが、段々燃えてくる。そういう信心にならせて頂く時にです、私は狂いのない間違いのない信心。今朝から私が頂きます唐傘の、骨はバラバ、紙は破れても離れまいぞえ主の側と。と言うことと「神の綱が切れたというが、神は切らん氏子から切るな。」と仰る。この氏子から切るなと言うところがです。
例えそれは骨は折れたり破れたり致しましてもそういう時にこそ、愈々神様へ接近して行けれる時である。愈々近づかせて頂ける時であるという事を。今日の場合でも、本当にそこんところを分かってくれよと言う、何かそこに、皆さん神の声をそこに聞くような気が致します。私がご神前で頂いた事。そして今日皆さんに御理解をさせて頂いておる、この御理解十七節と言う物がです、これだけ沢山の御教えがある中に、そこにピッタリ思いが合うでしょう。如何に神様が、ここん処を分かってくれよと。
言っておられるか分からないのですから、私共が分からにゃいかん。それを今日は巡りの自覚、自分のめぐりを知れと。同時に大改まりに改まれと。そこから五つの願いが真剣になされる。それもお役に立ちたい立ちたいの一念が、それを祈らなければおられんのだと言う、例えば三つの所をですね、芯にしてお話を聞いて頂いた。それも本当に氏子信心して、おかげを受けてくれよという事は、氏子信心してそこん処を分かってくれよと、今日はそういう風に、神の声を聞く様な思いを致しましたですね。
どうそ。